2013年6月18日火曜日

潜竜院



真田昌幸が、武田勝頼を迎え入れようとした御殿跡であります。

1582年(天正十年)2月、武田当主・武田勝頼は、織田信忠(信長嫡男)の甲斐・信濃侵攻により攻められます。軍議の席で、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再起を図ることを提案します。その際、直様帰国し岩櫃山南側に三日間で造りあげたといわれるのが潜竜院です。

しかし、もう一人の家臣・小山田信茂も自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めます。

結果、勝頼は小山田信茂の提案を受け入れ岩殿山城へ向かいますが、途中で信茂に裏切られ、勝頼は岩殿へ入れず、天目山にて自害することになり、名門である甲斐武田家は滅亡することになるのです。

歴史にIFはないけれども、勝頼が昌幸の提案を受け入れ、岩櫃の地に来ていたのならば名門武田家はどうなっていたのでしょうか?昌幸は、狸と呼ばれていた男、切れものであるが忠臣って感じもしないんで、小山田信茂と同じく裏切ったのかもしれませんね。但し、信茂のように武田への不忠を理由に殺されるような事はないでしょうね。むざむざ殺されないでしょう!!

写真館





訪問日 2013.05.06



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