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2018年1月15日月曜日

大舘館




場所 群馬県太田市大館1474

築城年数 ?

築城者 ?


大舘(おおたち)の名が歴史に登場するのは、仁安3年(1168年)新田義重の子、らいおうごせん(徳川義季)とその母に所領を譲り渡す約束をした新田義重置文に記されているという。しかし実際には、らいおうごせんとその母には譲渡されておらず、新田宗家に伝えられたと考えら、義重の子孫である家氏がこの地に住み大舘氏の祖になったという。

太平記によれば、新田義重による生品神社の挙兵に際し、義重に従軍一族筆頭は大舘宗氏(家氏の子)と、その子幸氏、氏明であったという。宗氏は鎌倉攻めで戦死、氏明は新田義貞亡き後も脇屋義助(新田義貞の弟)と共に四国の地で活躍するが戦死している。

遺構は耕地整理により皆無、畑の中にポツリと小さな神社があるのみです。案内板によると、ここは古くから窯跡だったと伝わっているらしく、この場所を中心に御堀、鍛冶屋、馬場、御蔵という地名が往時を偲ばせるといいます。



大舘館から徒歩5分ほどの地に東楊寺があります。東楊寺には、津軽藩代官足立氏の墓があります。津軽藩が関が原の戦いの戦功で得た飛地2千石が上州八か村にあり、その中心にある大館村に陣屋が置かれ代官として足立氏が管制していたためです。

一説には、石田三成の娘といわれる大舘御前といわれた辰姫も東楊寺に眠り、大舘の地で生まれた信義は津軽三代藩主となっています。

尾島のねぷた祭が開催されるのも、このような歴史の繋がりがあるからです。


写真館


大舘館を遠景から撮影


東楊寺

東楊寺の説明版

足立氏と辰姫の墓


尾島ねぷたまつり

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訪問日 2017.06.16




2018年1月1日月曜日

赤岩城(上野)



場所 群馬県邑楽郡千代田町赤岩桜山

築城年数 鎌倉時代

築城者 佐貫嗣綱


うんがーっと!!約4年ぶりの更新です。今後もゆるっと、よろしくお願いします。

さて、現在の邑楽郡千代田町にある光恩寺が赤岩城跡です。

わかりやすく言うと、鶴舞う形の群馬県の首の辺りといえば伝わりやすいですかね?

歴史としては詳しくわかりませんが、この辺を支配していた藤原秀郷の流れを組む佐貫嗣綱が築き、大佐貫館から移って居城としたが、嗣綱の子である広綱は青柳城を築き移って行ったとされます。

遺構としては、かなり埋まってしまっていますが寺門前の空堀と寺後方の土塁が残っています。大方は度重なる洪水により消滅してしまったようです。また、北東部には堂山古墳の前方後円墳がり、前方部には館林城を築城したとされる伝承があり、佐貫氏の一族である赤井照光の墓が建てられていて、後方部には鐘楼があります。古墳は見張台として使われいたという記録もあるようです。

その他に日本で最初の女医であり、小説『花埋み』渡辺淳一著の主人公である渡辺吟子の生家門が埼玉県妻沼から移築されていて、吟子さんの像も建てられています。

城近くには戦国時代末に船による輸送、船を繋つなぎ合わせて武士団を渡したと上杉謙信の文献に記されている歴史ある赤岩渡船に乗ってみるのもイイかもしれませんよ!
佐貫嗣綱は、この船輸送を抑えるための城を築いたのかもしれません。


写真館

寺前の空堀
空堀
赤井照光の墓
鐘楼
荻野吟子像
荻野吟子生家長屋門
赤岩渡船



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訪問日 2017.12.31

2014年2月17日月曜日

山上城



場所 群馬県桐生市新里町山上297-1

築城年数 不明

築城者 山上高綱

花の慶次を読んだことがある方ならご存知かと思いますが山上氏秀こと山上道及(やまがみ・どうきゅう)が居たお城です。道及さん、漫画ばかりでなく、なんとなんとパチスロにも出演されてるんですね!

藤原秀郷(平将門を伐った人)の末裔とされる足利俊綱(藤原姓)の弟、高綱が山上を名乗りこの地に移り住んで築城したとされる。

室町時代には関東管領家山内上杉氏の重臣となり由良氏、桐生氏、園田氏と共に東上州四家として重要な役割を担っていたといいます。

弘治元年(1555年)には、北条氏康に攻められ城主であった山上道及を下野へ追いやり北条家の城としますが、以後、上杉謙信・武田勝頼の間で争奪戦が繰り広げられるようになり城主も目まぐるしく変わったようです。因みに桐生市のHPでは武田勝頼に攻められて廃城となったとありますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による北条征伐で片桐且元らに攻められて落城し廃城となったと思われます。

写真館 

<城址図と大ムカデと大蛇の戦い>
右画像:赤城山(群馬県)の神様が大ムカデとなり、男体山(栃木県)の神様が大蛇となり争ったというお話があります。そのモニュメントが三の丸付近にありました。ちなみに赤城山は遠方より見ると女の寝姿と表されますので、男と女の戦いでしょうか?(笑
実際には中禅寺湖はどちらの領土か?を争って戦ったわけです。


<三の丸>
新しい遊具が置いてあります。本丸付近に錆びた遊具がありますので、以前は本丸付近が公園となっていたのかもしれません。



二の丸付近





<本丸



         

<井戸と物見櫓址>
三の丸先端にある井戸跡と林の方にあったとされる物見櫓跡。民家の辺りかな?


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訪問日 2014年1月11日 



2014年1月24日金曜日

大胡城




場所 群馬県前橋市河原町

築城者 大胡氏

築城年数 天文年間(1532~1555)

現在の城跡の一部は大胡支所や学校に変わっていますが、素晴らしい枡形門、虎口、空堀り、土塁等の跡が良好な状態で残されていていますので感動すると思います。

大胡氏は藤原秀郷の子孫で、藤原足利氏(源氏足利氏とは別系統です。)の庶流にあたります。
バサリ言えば、足利尊氏なんかとは別系統ってことですね。剣聖で有名な上泉信綱なども一族にあたるといわれています。(信長の野望というゲームをプレイした方はご存知かと思いますが、めっさ強い人です。一人で百人くらい余裕で相手にできます。
大胡城主であったとも書物に書かれているとか?




名曲を聴いていただいた所で、続きを・・・

戦国期に、上杉謙信の攻撃を受け落城した際には謙信の家臣である北条高弘(きたじょう・たかひろ)が城主になってる所も私敵に興味深いです。 高弘さんは前橋城の城主にもなっていた人で、息子に前橋城を譲って隠居する際にも、この城に入ったそうです。

天正18年(1890年)徳川家康が関東に入部すると、牧野氏が2万石で封じられ康成・忠成2代の居城となります。その後牧野氏が越後長峰へ5万石で転封になると、酒井氏の前橋藩領となり城代が置かれますが、寛政2年(1742年)酒井氏の姫路転封により廃城となるのです。

写真館








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訪問日 2013.07.20

2014年1月20日月曜日

柄杓山城



場所  群馬県桐生市梅田町1丁目地内

築城者 桐生国綱
改修者 由良成繁

築城年数 1350年

藤原姓足利系佐野氏の一族桐生国綱によって、南北朝の初めに3年の年月を掛けて築城された実戦型の山城です。東に桐生川、南に渡良瀬川が流れ、西南の丸山と東南の浅間山に砦を構え、その間に新川を掘って要害堀とし、東西の山地には物見山その他の小さな砦を備えて万全の構えを示し、桐生実城と称されたといいます。

城主である桐生氏は助綱の頃まで繁栄したが、天正元年(1573)一族である佐野氏からの養子・親綱の時に、由良氏との抗争激化、桐生氏内部抗争による弱体化により築城以来約220年で太田金山城を本拠地とする由良成繁に滅ぼされてしまいます。

その後、由良成繁は嫡子・国繁に太田金山城を譲り、自分は柄杓山城に本拠地を移しますが、二代国繁の時に小田原の北条氏に味方して豊臣氏に敗れ、常陸国牛久に移された為廃城となります。


写真館


『三の丸跡』


『堀跡』


『二の丸跡』
三の丸もそうですが、コレが廓跡ですか?って感じに狭いで驚くのですが、多分
弓・鉄砲などの狙撃兵を数名配置する所なのだと思われます。


『本丸跡』
本丸跡は公園として整備されていました。桐生市を見下ろすことができ、景色が綺麗で、とても気持ちがいいので城攻め時にはこちらで休憩すると良いと思います。お弁当を食べるにはもってこいです!




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訪問日 2013.11.16