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2013年7月8日月曜日

関川寺館



場所 福島県白河市愛宕町

北畠顕家公を崇拝している私は、顕家公と関係深い結城宗広公の墓所が白河市内関川寺にあると知りまして行って見たわけですが、意外と解りづらい場所にあるのです。ウォーキングしていたオバさんが親切に教えてくださって助かりました。

で、後から知るわけですが、ここ館跡だったんです。

詳しく発掘調査をしている訳ではないので具体的にはできないが、遺構形態や規模から鎌倉時代後期の白河結城氏の居館跡の可能性が高いという。残存する土塁が際立って高いことから戦国時代末期まで使用されていたと考えられている。( 白川義親の居城として改修された可能性が考えられているとういう。) ※現地案内板参照

確かに土塁は高かったです・・・

写真館


MAP



訪問日 2013.05.05

2013年7月5日金曜日

久下田城



場所 茨城県筑西市樋口

藤原秀郷が平将門討伐の際に建てたという三館の伝承の上館にあたる久下田城。場所は、栃木県真岡市と茨城県筑西市の境目にあたります。ちなみに、この城の城主であらした水谷正村(蟠龍斎)さんの菩提寺は芳全寺は真岡市になります。

下館城城主であった水村正村が宇都宮氏との対立激化の為、天文14年(1545年)に築城、宇都宮氏の来襲に備え下館城は弟・勝俊に預け自ら久下田城に移った。

正村という男なんという猛将!自分は『信長の野望』の正村しかありませんでしたので、北関東の武将では使えるやつくらいなイメージだったんですが、調べれば調べるほど凄い男!戦をすれば負けない、早くから家康と通じていたりと政治力もなかなかで、水谷家は最終的には独立大名となります。(以前は、結城家の家臣であった。)

そんな水村正村の城も元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となったと言われている。
現在は茨城県指定の文化財となり二の丸が公園と化しており、久下田城保存会もあるようだが、かなり荒れていてビックリする。堀など非常に見事なだけにホント勿体無いと思います。

写真館 







芳全寺』 

場所 真岡市久下田801

水谷正村が先代の為に建立した芳全寺に正村自身もお眠りになっておられます。
寺には、正村がまだ玉若丸を名乗っていた時に父・水谷芳治持に従い初陣で武蔵国大串へ出陣した祭に勝利を収め、勝利の証しとして持ち帰った鐘「蟠龍の釣鐘」があります。(太平洋戦争の際に戦時提供され、現在は復元)


MAP(久下田城、かなりアバウト)



訪問日 2013.07.03

2013年7月1日月曜日

皆川城



場所 栃木県栃木市皆川城内町

別名 法螺貝城

信長の野望にも登場し、下野宇都宮家でプレイするときは頼りになる皆川広照(皆川五代当主)のお城です。(織田信長に馬を献上し謝礼状を貰っている。)

築城者は諸説あるようで、城址案内板(居館跡)には長沼秀宗とあり、同じ城址本丸跡の案内板では15世紀中頃(1450年前後)とある。さらに、栃木観光協会のHPでは応永元年(1394年)に皆川秀光とあるが、寛喜年間(1229~31)に皆川宗員とするところもある。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、北条方であった皆川城は豊臣方の上杉景勝・浅野長政軍に包囲され皆川広照が降伏開城した。その後、皆川氏の存続は認められたが、その際に新たに栃木城を築き移り、皆川城は廃城となった。

とても良く整備されていて、遺構がよく残っている。表は、非常によく整備されているが、裏は程よく荒れているので面白い!とてもオススメの城です。


写真館

復元模型
縄張り図

居館跡
東西約140m×南北約100mの方形状をして三方を土塁にがあったが、現在は公民館の西側に残るのみとなっている。現在の公民館が居館跡である。




竪堀
中心から外に向かって掘られた空堀で、敵が攻め込んで来た時に左右の連絡を断つことを目的に造られている。



西の虎口
虎口とは、城の出入り口や、各廓の出入口を指すものです。東にも虎口跡もあるようですが、立ち入り禁止区間にあり確認できませんでした。

 
本丸跡



西の丸



井戸跡


白山台・東宮神社
皆川城東方120mにある方形台状の曲輪で、第一次皆川系の館であり、第二次皆川氏においては皆川城の砦一部となっていた。現在は、南側部が残っているのみである。




金剛寺
城の西方にある寺で、皆川家歴代当主の墓がある。更に、皆川広照が寄進したとされる南蛮鎧兜や、広照長子・隆庸が先祖の菩提のために寄進した薬師如来像が安置されている。


皆川広照の墓

場所(ざっくり!)



訪問日 2013.07.01

2013年2月23日土曜日

喜連川陣屋



喜連川城は、3・11の震災の影響で山崩れ等、危険な状態にあるので立ち入り禁止だそうです。なので、今回は陣屋址だけで我慢です。

喜連川陣屋について
喜連川陣屋は、館造りで二廓から構成されていた。主廓は、倉ケ崎城山嶺に位置し、城山との間には、堀が一本あるだけで防備は薄い。 ここに臨戦時には、城山を頼る意図が見える。明和四年の記録からも城山は維持・管理されていた事がわかる。

城山側を除く他の三面には土塁と堀が巡っていて特に北側には大池があった。

喜連川陣屋の御殿は『足利公館平面図』でより詳細を知ることができるが、明治9年に放火によって焼失したと伝えられ、現在まで土塁や堀を含くめ現地に残る遺構はない。

現在は、さくら市市役所支所や図書館の敷地となっている。


喜連川陣屋写真館
大手門は、明治9年に焼失し、平成3年に新たに建てられたものです。




武家屋敷と喜連川神社



★喜連川陣屋はココだ!★
栃木県さくら市喜連川4397-1





★墓所★
家康は源氏を称して将軍となり、徳川将軍は代々「源氏の長者」の称を朝廷から得ていた。そのため家康は源氏の名流を特に保護し、この喜連川家を筆頭に、吉良家、今川家、畠山家などの足利一門大名の末裔や、果ては新田家の末裔までも探しだし、いわゆる「高家」として遇した。

中でもこの喜連川足利家を足利家の嫡流として、5千石を与え、万石未満ながら大名待遇とされた喜連川家の累代の墓所が龍光寺にあります。




古のロマンを感じた度 喜連川を盛り立てようとしてる街の姿勢に感動 70点



訪問日 2013.02.22