場所 群馬県太田市大館1474
築城年数 ?
築城者 ?
大舘(おおたち)の名が歴史に登場するのは、仁安3年(1168年)新田義重の子、らいおうごせん(徳川義季)とその母に所領を譲り渡す約束をした新田義重置文に記されているという。しかし実際には、らいおうごせんとその母には譲渡されておらず、新田宗家に伝えられたと考えら、義重の子孫である家氏がこの地に住み大舘氏の祖になったという。
太平記によれば、新田義重による生品神社の挙兵に際し、義重に従軍一族筆頭は大舘宗氏(家氏の子)と、その子幸氏、氏明であったという。宗氏は鎌倉攻めで戦死、氏明は新田義貞亡き後も脇屋義助(新田義貞の弟)と共に四国の地で活躍するが戦死している。
遺構は耕地整理により皆無、畑の中にポツリと小さな神社があるのみです。案内板によると、ここは古くから窯跡だったと伝わっているらしく、この場所を中心に御堀、鍛冶屋、馬場、御蔵という地名が往時を偲ばせるといいます。
大舘館から徒歩5分ほどの地に東楊寺があります。東楊寺には、津軽藩代官足立氏の墓があります。津軽藩が関が原の戦いの戦功で得た飛地2千石が上州八か村にあり、その中心にある大館村に陣屋が置かれ代官として足立氏が管制していたためです。
一説には、石田三成の娘といわれる大舘御前といわれた辰姫も東楊寺に眠り、大舘の地で生まれた信義は津軽三代藩主となっています。
尾島のねぷた祭が開催されるのも、このような歴史の繋がりがあるからです。
写真館
大舘館を遠景から撮影 |
東楊寺 |
東楊寺の説明版 |
足立氏と辰姫の墓 |
尾島ねぷたまつり |
MAP
訪問日 2017.06.16
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