場所 長野県高井郡高山村高井八幡添
築城年数 江戸時代前期
築城者 福島正則
豊臣秀吉子飼いの武将であり、賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍、関が原の戦いの後、広島藩(安芸・備中)49万8千石の藩主となった福島正則が晩年暮らした館跡です。
屋敷は東西103m、南北70mの方形単郭の平城で、四方に高土塁を築き、その外に空堀を廻らせてあったといいます。遺構としては、東北隅に高さ5mの土塁跡が残るのみで、石垣は後年、別人によって改修されたもです。
広島藩の太守にまでなった福島正則の晩年は寂しいもので、徳川家康の死後まもなく元和5年(1619年)に、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸・石垣を無断修繕したことが武家所法度違反に問われ安芸、備中の領地を没収され信濃川中島四郡中の高井郡2万石と越後魚沼郡2万5千石の4万5千石に減転封を受けることとなります。(実際は、広島城の改修願いは幕府に提出されていた。)
移封後、正則は高井郡に居住地を定め、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居しますが、元和6年(1620年)に忠勝は早世してしまった為、越後魚沼郡2万5千石を幕府に返上します。
そして、寛永元年(1624年)この地で64年の生涯を閉じるわけですが、幕府の検死役が到着する前に、家臣の津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したために高井郡2万石の領地も没収され福島家は取り潰されてしまうのです。
正則の在館年数はわずか5年でしたが、領内の検地を行い、治水、新田開発にと民政に尽くし功績を残しました。
館跡のすぐ近くに正則を火葬したという場所があります。案内板も出ていますのでわかり易いと思われますので、館跡と共に...
館跡に残された土塁跡 |
屋敷跡に建てられた高井山高井寺 |
福島正成荼毘の地 案内板 |
正則荼毘の地 |
福島正則荼毘の地 |
福島正則荼毘の地 |
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訪問日 2017.07.02
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