2013年1月15日火曜日

前橋城



 関東七名城の一つ、前橋城跡にわざわざ雪の中行って参りました。群馬に住んでいる時分は、何度もココを通りつつも無視しまっくっていた私でますが、城跡巡りを始め、改めて行って見ると感慨深いものがあります。何故に、大雪の中行ったかといったら、その日が群馬でお仕事があったから♪

前橋城について

 前橋城は古くは厩橋城と称していた。築城年は15世紀後半のこと、初代城主は箕輪城主・長野氏の一族、前橋長野左衛門尉方業とされる。以後、長野氏らの前橋衆が拠っていたが、1552年(天文21年)に北条氏の勢力が上州に及び、厩橋城は小田原北条方となる。

 1560年(永禄3年)景虎(後の上杉謙信)の長尾軍が厩橋城を攻め取る。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされたが、謙信の死後、永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされ、武田氏の領地となる。

 1582年(天正10年)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将・滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし、信長が本能寺の変で急死すると、一益は本国に戻り、城は小田原北条
氏の手中に帰した。その後、豊臣秀吉による小田原討伐軍の浅野長政に攻められ落城する。

 同年、4月関東に入封した徳川家康は、重臣・平岩親吉を厩橋3万3千石に封した。親吉は、1601年(慶長6年)に甲斐に転封となったため、代わって川越から酒井重忠が入封、以後9代の間、酒井氏の藩制が続いた。

 1747年(寛延2年)酒井氏が姫路に転封となり、代わりに姫路より松平朝矩が入封するが、酒井氏以降難題であった、利根川の激流による城郭の破壊がすすみ、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願い出て、1767年(明和4年)川越に移城した。以後、厩橋城は廃され、領地は、約400年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなる。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主・直候ならびに直克の決断により、1863年(文久3年)12月、幕府から再築の許可を得、1867年(慶応3年)帰城が実現した。
 
さて、ぶらりぶらりしましょ!


『群馬県庁』
 来城の際は、県庁展望台から城跡を眺めてみるのもイイかもしれません。あっ、展望台から前橋公園内にある『さちの池』を見ると、池の形が鶴が舞う形をしているのがわかります。なぜ、鶴か!?それは、群馬県が鶴が舞う形と言われているからです。『鶴舞う形の群馬県』と上毛カルタに読まれています。(上州っ子は、だれでも知ってる)それと、展望台レストランで御食事などもイイかもね。


『馬の埴輪像』と『前橋城址碑』
 群馬は馬の産地ですから、埴輪もお馬さんです!!漫画『花の慶次』に登場する、慶次の愛馬・松風は、群馬出身なんですぞっ!それと、ぐんまちゃんがマスコットキャラなんです。2012年度ゆるきゃら選手権3位♪おめ!『前橋城址碑』は、TOP画となっております。




『虎口の門跡』と『土塁』
 少し離れた場所には、城の東側の外郭部に接続する丸馬出しからの虎口にあった車橋門の跡もあります。あたしゃ、行ってないんだけども・・・



 隣接する公園等にも、幾つか記念碑が建ってますので覗いてみるとよろしかと思います。(城に関するものではありません。)しかし、この城には、北条高広(きたじょう)・滝川一益・平岩親吉等『信長の野望』で使える武将達が城主となってますなぁ~。


★おまけ★
 城跡から5分程歩いた所に『前橋東照宮』があります。
前橋東照宮は、徳川家康公の次男(結城城で紹介したあの人です。)である結城秀康の四男・直基が松平姓を賜り、越前勝山城主に任ぜられた1624年(寛永元年)6月6日、祖父・家康公の遺徳をたたえ祭祀したのがはじまりといわれています。

 以降、松平氏は、1633年(寛永10年)に越前大野、1644年(正保元年)に出羽山形、1648年(慶安元年)に播州姫路、1649年(慶安2年)に 越後村上、1667年(寛文7年)に播州姫路、1682年(天和2年)豊後日田、1686年(貞享3年)出羽山形、1692年(元禄5年)奥州白河、 1741年(寛保元年)播州姫路、1749年(寛延2年)上州前橋、1768年(明和5年)武州川越、1865年(慶応元年)上州前橋など、13度に渡る 移封に逢いながらも、そのたびごとに東照宮を城地に奉遷し崇敬しました。

すげー!行ってみたくなりません?











★だいたいここらへん★ 
群馬県前橋市


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訪問日2013.01.14


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