2013年1月29日火曜日

騎西城



やーっちまったなー!感がプンプンするお城跡発見してしまいました。その名も、騎西城跡です。
この城、北武蔵城物語の3城の内の一つです。忍城でも紹介しましたけど、北武蔵城物語ってなんだ?という人に説明しておきます。

『北武蔵城物語』
こんな城巡り歴史ガイドマップをいただきました!こんなのあるんだ!?と感動した訳ですが・・・
あれ?ちょっと待てよ?表紙が、上杉謙信っておかしいだろ!?と思いまして、私に色々指南してくださるお友達に相談したところ、やはり何故、謙信が表紙なんでしょ?と言われました。ちなみに、ここで紹介されている城は、忍城・騎西城・羽生城の3城です。

忍城と謙信・・・えー、謙信が関東に進出してくると謙信に従いますが、鶴ヶ岡八幡宮で関東管領の就任式を謙信が行った際に、忍城城主・成田長泰が馬から降りず謙信が怒り!ボッコボコにします。成田氏は、名門で馬上礼を許されていたのです。怒った成田長泰は、帰国してしまいます。
それが引き金に?続々と関東諸将は帰国してしまうのです。

羽生城と謙信・・・関東管領の儀式終了後、謙信が自領・越後に帰る際に、羽生城を攻めます。
ええっ!?ちょっと・・・

騎西城と謙信・・・1563年(永禄3年)上杉方の重要拠点、武蔵松山城が北条と武田の攻撃により落城してしまいます。謙信は腹いせに騎西城を攻めます!更には、1574年(天正2年)にも、謙信が来襲し、騎西城下を焼き討ちするのです。

そんな、状態の中でのパンフレットですが、確かに・・・この3城の城主では、世間様ではピーンとこないでしょう?でもね、上記の様な事をしでかす謙信さんは、この3城からしたら敵ですがね?なんで、表紙なのよ?

おいっ、ちょっと待てよっ!とキムタクの真似をするホリの真似をしたくなります。











しかし、パンフレットよくできていますよ!城跡近隣の史跡なども紹介されていますし、重宝すると思います。パンフレットありがとうね~♪


さて、騎西城について
騎西城(私市城)は、いつ誰の手によって築城されたかは不明だが、1455年(康正元年)に上杉・長尾・庁鼻和(こばなわ)氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。
1563年(永禄6年)には、小田助三郎の守る騎西城を上杉輝虎(のちの上杉謙信)が攻略している。
徳川家康が関東に入った1590年(天正18年)に松平康重が2万石で城主となるり、その後大久保忠常・忠職親子が城主となり城下町騎西の再編を行った。1632年(寛永9年)忠職の美濃加納城移封により、騎西城は廃城となった。

ほとんど、遺構残ってません!天守閣が何故あるんだか?こちらは、歴史資料館になってます。
しかも、本丸跡にあるわけじゃないですし・・・うーん!
でも、歴史資料館に入りたかったです。発掘調査のおり、甲なども出てきてるんです。



★城跡は、ここだ!★
埼玉県加須市根小屋


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訪問日 2013.01.28

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