2013年1月31日木曜日

高崎城



みんなのアイドル・ひこにゃん♪に変身する前の井伊直政によって築城され、大河の主人公にもなった『江』の息子にして、3代将軍・家光の弟にあたる家長が幽閉された城であります。1回目の訪問時に、TOP画の乾櫓を撮り忘れてしまいましたので2回目の訪問になります。

といいますか、群馬に住んでいる時は、ここ良く通っていたんですけど、ノーマーク!当時は、まさか、自分がお城巡りなんてすると思わなかったもので・・・

高崎城について
箕輪城主・井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのが1598年(慶長3年)のことである。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松ヶ崎と改めようとし、竜広寺の住持白竜に相談した。白竜は、諸木には栄枯があることを説き『成功高大』の意味から高崎と名付けるように進言し、これが採用された。高崎の地名はこうして採用された。
この地には、かつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は
、和田城址を取り込む形で築かれており、坪数5万1623ツ坪にも及ぶ広大な城郭となった。
1872年(明治4年)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄になり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払い下げとなった。更に、兵営や練兵場を建設するために城内は整地され。このため本丸・二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。    
説明板より

『乾櫓』
高崎城本丸の北西の隅にあったことから乾(戌+亥)です。群馬県内では現存する唯一の城郭建築なのだそうです。


『東門』
地元の名主さんに一時払い下げられていたらしく、その後、市に寄贈されました。ただ、当時よりもは門の高さは低くなっているようで、馬上に乗ったままでは門は通れないみたいですね。

 『石垣』












『三の丸 外囲の土居と堀』 
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。
今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。
明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。
都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料が残されているため、当時の姿を知ることができます。
説明板より




高崎城の縄張り(城郭や櫓や堀の配置)は、専門家の話によれば、数ある城の中でも極めて防衛面に配慮した造りになっているそうです。 


★城跡はココだ!★
群馬県高崎市高松町


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★おまけ★
徳川忠長さんのお墓は『大信寺』、徳川忠長自刃の間は『長松寺』にあります。
高崎城跡とセットで見学すると良いのではないでしょうか?自刃の間は、待合室と使われているので、法事等があるときは見学できません。電話してから行きましょう!


 高崎城跡近くの公園に、こんな生き物がいるんです。UMAだ!












訪問日 2013.01.20


2013年1月30日水曜日

川越城



『関東七名城』であり、『日本100名城』でもあるお城でございます。1457年(長禄元年)太田道真、道灌親子によって築城され、上杉七代、北条四代の持城であった。当時は後の本丸・二の丸を合わせた程度の規模であったそうである。
江戸時代に入って松平信綱が城を拡大し八郭・三櫓・十二門を持つ、徳川家の親藩、譜代の居城として有名であった。しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊され、現在では本丸御殿の一部と富士見櫓跡が残るのみとなっています。

本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城だけなんです。



『川越城蓮池門跡』
川越城本丸御殿から道路を挟んで向かいにある美術館の脇にあります。


『川越城中ノ門堀跡』
郭町の信号のところにあります。



『富士見櫓跡』
天守閣のなかった川越城には、東北に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりをしていたと思われる。
江戸末期1866年(慶応2年)の測量によれば、富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。
山頂には御岳神社が祀られていました。



『川越城田曲輪門跡』
富士見櫓跡にある門跡です。


川越城跡探索は、川越市街探索と一緒です。街中を探索していると、親切な案内板が沢山ありますので、その通りに進めば素晴らしい史跡に巡り会えます。


★城跡はココだっ!★
埼玉県川越市郭町2−13−1


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★おまけ★
川越と言ったら、『亀どら』と『中市本店のねこまんま焼きおにぎり』
どちらも大変美味しゅうございます!亀どらは、粒あん♪ねこまんま焼きおにぎりはイワシ♪がお気に入りです!とりあえず、亀どらUP











もう一つ、川越と言ったら、川越夜戦ですね。合戦場跡もちゃんとあります。『東明寺』の敷地内に川越夜戦城跡の石碑が建っております。川越城本殿跡見学とセットで見学されるとよろしいのではないでしょうか?




訪問日 2013.01.28


2013年1月29日火曜日

騎西城



やーっちまったなー!感がプンプンするお城跡発見してしまいました。その名も、騎西城跡です。
この城、北武蔵城物語の3城の内の一つです。忍城でも紹介しましたけど、北武蔵城物語ってなんだ?という人に説明しておきます。

『北武蔵城物語』
こんな城巡り歴史ガイドマップをいただきました!こんなのあるんだ!?と感動した訳ですが・・・
あれ?ちょっと待てよ?表紙が、上杉謙信っておかしいだろ!?と思いまして、私に色々指南してくださるお友達に相談したところ、やはり何故、謙信が表紙なんでしょ?と言われました。ちなみに、ここで紹介されている城は、忍城・騎西城・羽生城の3城です。

忍城と謙信・・・えー、謙信が関東に進出してくると謙信に従いますが、鶴ヶ岡八幡宮で関東管領の就任式を謙信が行った際に、忍城城主・成田長泰が馬から降りず謙信が怒り!ボッコボコにします。成田氏は、名門で馬上礼を許されていたのです。怒った成田長泰は、帰国してしまいます。
それが引き金に?続々と関東諸将は帰国してしまうのです。

羽生城と謙信・・・関東管領の儀式終了後、謙信が自領・越後に帰る際に、羽生城を攻めます。
ええっ!?ちょっと・・・

騎西城と謙信・・・1563年(永禄3年)上杉方の重要拠点、武蔵松山城が北条と武田の攻撃により落城してしまいます。謙信は腹いせに騎西城を攻めます!更には、1574年(天正2年)にも、謙信が来襲し、騎西城下を焼き討ちするのです。

そんな、状態の中でのパンフレットですが、確かに・・・この3城の城主では、世間様ではピーンとこないでしょう?でもね、上記の様な事をしでかす謙信さんは、この3城からしたら敵ですがね?なんで、表紙なのよ?

おいっ、ちょっと待てよっ!とキムタクの真似をするホリの真似をしたくなります。











しかし、パンフレットよくできていますよ!城跡近隣の史跡なども紹介されていますし、重宝すると思います。パンフレットありがとうね~♪


さて、騎西城について
騎西城(私市城)は、いつ誰の手によって築城されたかは不明だが、1455年(康正元年)に上杉・長尾・庁鼻和(こばなわ)氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。
1563年(永禄6年)には、小田助三郎の守る騎西城を上杉輝虎(のちの上杉謙信)が攻略している。
徳川家康が関東に入った1590年(天正18年)に松平康重が2万石で城主となるり、その後大久保忠常・忠職親子が城主となり城下町騎西の再編を行った。1632年(寛永9年)忠職の美濃加納城移封により、騎西城は廃城となった。

ほとんど、遺構残ってません!天守閣が何故あるんだか?こちらは、歴史資料館になってます。
しかも、本丸跡にあるわけじゃないですし・・・うーん!
でも、歴史資料館に入りたかったです。発掘調査のおり、甲なども出てきてるんです。



★城跡は、ここだ!★
埼玉県加須市根小屋


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訪問日 2013.01.28

2013年1月28日月曜日

忍城



私が城跡というものを見て初めて感動したのは、この忍城を20代に見た時だと思います。今回で、4回目の訪問でございます。この城は、関東七名城の一つ、それと北武蔵城物語3城の一つに含まれています。それと、もちろん『のぼうの城』の舞台となった城でもあります。

さて、忍城について
1478年(文明10年)の頃、成田顕泰により築城された『守り易く攻めにくい』難攻不落の名城であったと伝えられている。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも『忍の浮城』とも称されたという。関東平定戦の中で、唯一落なかった城でもある。
1639年(寛永16年)時の老中、阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手、孫の正武の代にいたり忍城御三階櫓の建設、城門・土塀の改築などが完成し面目を一新したという。
1833年(文政6年)伊勢の桑名から松平忠堯が移封し忠誠のとき明治維新を迎えた。
現在は、維新後に取り壊されていた城郭の面影を再建した形となっている。
 



『忍城の鐘』
1823年(文政6年)に伊勢桑名城から忍城に移った松平氏が、1764年(宝暦14年)に桑名で鋳造したもの。転封に伴い、忍城に移されたという。


『忍城櫓の石垣』
場内にあった櫓に使用された石垣。1702年(元禄15年)に三階櫓一棟、二階櫓二棟が建てられたが1873年(明治6年)の廃城により解体された。


『城内』



『伝進修館表門』
この門は、行田市城西の芳川家表門を移築・復元したもので、かつて藩校『進修館』の表門であったと伝えられている門。戦災によって一度移築されている事などから『進修館』の門であるかは確定していませんが、現存する行田市唯一の武家屋の敷表門として歴史的建造物であると言える。


『城外』



『本丸』 『本丸土塁』
本丸は、第二駐車場に石碑が建っています。本丸土塁は、本丸西側を囲む土塁で旧状をよく残す南に二の丸、西に土蔵曲輪と橋で結ばれていたということです。


『歴史資料館』
休館日が意外に多いと思いました。こちらで、このお城が落なかったという事で、受験生向けに絶対に落ないお守りを販売しているそうです。大人気だとか?孫のために、電車を乗り継いで、ここまでお守りを買いにいらっしゃる老夫婦もいらっしゃいました。しかし、休館日・・・愕然としていると、親切な近所の方が市役所の観光課でも販売していると教えてあげて、休館日でごめんなさい。と謝っていました。掲示板等があるんですから、お知らせでも貼ってあげたら良いと思うのですが・・・
それに、意外と『のぼうの城』を観ろ観ろいう割には、不親切な対応が多いと地元の方からの声が多かったです。遠方からいらっしゃる人が可哀想で・・・と2人の地元の方に言われました。

行田市さん!頑張ってください。忍城おもてなし隊なんて、どーだっていいのよ!!しっかりせんかい!!と怒っておきます!



★城跡は、ここだ!★
埼玉県行田市


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★おまけ★
ぜひ、ゼリーとゼリーフライを食べましょう! 
行田市/フライ・ゼリーMAP ←クリック♪

それと、このような銅人形が沢山飾られているので、コンプリートしてみましょう!
城の方は、銅じゃないかな?



訪問日 2013.01.28