2014年8月11日月曜日

平井城



場所 群馬県藤岡市西平井字新曲輪235-1

築城年数 永享10年(1438年) 

築城者 長尾忠房

関東管領様の城に久しぶりに行ってきたどーーーーーー!

ハイっ!久しぶりに、関東管領山内上杉氏の城平井城へ行ってまいりました。前回こちらに伺った時は自分が城巡りなどしていない時でしたので写真なども撮らず、『信長の野望に登場する上杉憲政の城ってここかいなぁ・・・』って感じでしたが、結構興奮したのを覚えております。

管領様!管領様って・・・関東管領ってなんやねん?(ゆる~くね)

室町幕府の時代、将軍様は京都(首都)におりましたので、将軍様の代わりに東国10ケ国を治める出先機関として鎌倉府というものを置きました。その一番偉い人が鎌倉公方で、鎌倉公方の補佐役関東管領です。
関東管領で一般的にも有名な人物は、GACKTっすかね?あっ・・・上杉謙信でしょうね。
(更に詳しく知りたい人は自分で勉強してね。) 

平井城の動向
  • 永享10年(1438年) 関東管領・上杉憲実が平井城に入城

  • 文正元年(1466年) 平井城4代城主・上杉顕定の時に拡張され、この時関東管領として最大勢力を得る。

  • 天文21年(1552年) 平井城8代城主・上杉憲政の時に小田原の北条氏康に攻め落とされ、上杉憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ逃れる。

  • 永禄3年(1560年) 長尾景虎が平井城を奪還するが、関東の拠点を厩橋城へ移し平井城は廃城となり、120年余りの歴史の幕を降ろす。
 

写真館 

本丸跡には沢山の解説板があり、平井城の歴史、関東管領などについてわかりやすく説明してくれてます。





堀、橋、堅掘


道路を挟んで本丸の真反対に二の丸がありますが、現在は住宅地となってます。



三の丸も住宅地ですが、平井城史探訪会があります。残念ながら出陣中でしたので中を拝見する事は出来ませんでしたが、甲冑が飾ってあり~の、GACKT謙信様のポスターあり~の面白そうでした!(平井城訪問の際には、是非立ち寄って見てください。)


殿小路は、殿様のお散歩コースです。上杉憲政も散歩していたのだろうか?



関東管領上杉氏平井城史跡探訪会素晴らしっ!

MAP



訪問日 2014.08.09

2014年8月4日月曜日

羽生城


場所 埼玉県羽生市東5-7

築城年数 天文年間(1532~1554年) 

築城者  広田直繁 木戸忠朝

現在は天満宮となっており、石碑が建てられていますが遺構は何も残っていないようです。羽生城は周囲を塀と土塁で囲われた平城だったと言われており、本丸は天満宮のある場所から西にあったようです。

さて、この城『北武蔵城物語』の城として忍城騎西城と共に絶賛スポット当てられ中なのです!!(多分)
で、キャッチコピーは、『上杉謙信に忠誠を誓った”あい”の城』(北武蔵物語のパンフレットに書いてある。)

北武蔵城物語・・・なんとなく、昨日~♪今日~♪あーすー♪変わりゆくわ~た~しー♪とか歌いながら探索したくなりますよね。

なんとなくっす!

ちょっと真面目に、築城者である広田直繁と木戸忠朝の兄弟は古河公方に使えていましたが、後北条氏が北武蔵に進出してくると敗れてしまい、城は後北条方の中条出羽守が城代として入ります。永禄3年(1560年)越後の上杉謙信が関東へ進出すると広田直繁、木戸忠朝の兄弟は上杉謙信に従い軍功をあげたので、城は再び兄弟のものとなるのです。広田・木戸の兄弟は、後北条氏と上杉謙信の争いの中で、常に上杉へ忠誠を近い後北条氏の本拠地小田原城を攻めたり、後北条方忍城主・成田氏長と戦を交えたそうです。

天正2年(1574年)には、羽生城が後北条に攻められ落城寸前になった際、上杉謙信は城兵数千を上州の膳城山上城に移らせ、羽生城は謙信の命で自落しました。 

その後、羽生城は後北条方の成田家の支配下となるが、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して後北条が滅ぶと徳川家康が関東に入り、家臣の大久保忠隣が2万石で入城しますが、有名な大久保長安事件で連座し改易され、この地は幕府の天領となるのです。

これにて、『北武蔵城物語』完結!めでたし・・・めでたし!!

写真館


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訪問日 2014.03.14