逆井城2回目の訪問です!
逆井城について
逆井城はもともと逆井氏が治めていたといわれています。逆井常繁公の代、1536年(天文5年)3月3日、小田原を本 拠地とする後北条氏の軍勢に攻められ、以後、1590年(天正18年)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまで、同氏の北関東進出の拠点となっていた、といわ れています。
この地は常陸佐竹氏・結城氏・多賀谷氏との領国の境目にあたり、すぐ北側にある自然の要害である「飯沼」に囲まれ堅牢を誇っていたと思われます。なお、1577年(天正5年)には、大鋸引を藤沢(神奈川県)より呼び寄せた、との記録もあります。
※坂東市観光協会参照
逆井城写真館
『二層櫓』
二層櫓は、戦国時代末期の城郭建築の歴史考証を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期櫓を復元したものです。近世の隅(すみ)櫓(やぐら)とは違い、時代を感じさせる櫓で、6m四方の平面をもち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現しています。
『井楼矢倉』
矢倉は逆井城址に2塔ありますが、現在は立ち入り禁止になっています。震災の影響か?
井楼矢倉は米を蒸す蒸篭と同じように、井形に組んだ方形材(ほうけいざい)を次々と組み上げた矢倉です。
このような矢倉が作られるのは次のような軍事目的のためです。
①物見櫓として敵の動勢を監視する。
②味方の軍の動勢を把握する。
このような矢倉の役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されています。この井楼矢倉は戦国時代末期のものを、資料を基に復元したものです。
『関宿城門』
関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、本柱が門の中心線上から前方にずれている薬医門と呼ばれるもの。
『主殿と観音堂』
左)主殿、茨城県牛込町で発掘調査された大台城遺跡発掘の折出土した主殿遺構を参考に、復元されたもの。大台城は、1595年頃に築城されたもので、逆井城と同時代に存在していたものです。
右)観音堂、茨城県岩井市にある大安寺にあったものを町が譲り受け、移築・復元したものです。
『鐘堀池』
1536年(天文5年)3月3日、逆井城城主・逆井常繁は、北条方大道寺駿河守に攻められて戦死する。この時城主の奥方(もしくは、娘)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み自殺したと伝えられている。この釣鐘を探そうと何人もの人が池を掘ったため、『釣堀池』や『釣鐘池』とよばれるようになった。
『櫓門と橋』
『比高二重土塁』
逆井城址東側に位置する土塁。堀の外と内側に土塁があり、高さが外側の土塁に比べて内側が高くなっています。この様な土塁の構築を比高二重土塁といい、戦国末期にこの城を構えた後北条の築城法の特色の一つです。
『飯沼』
戦国時代末期、前方に広がる水田は、2市4町にまたがる東西約1km、南北約20kmの沼であった。
★城跡は、ココだ!★
茨城県坂東市逆井1261
★おまけ★
城址公園内にあるお蕎麦屋『智姫』で昼食にしました。今回は、智姫そばをいただきましたよ!
ちょっと、汁が自分には塩っぱい感じがしましたが、蕎麦自体はとても美味しかったです。
古のロマンを感じた度 逆井城素晴らしい! 100点
訪問日 2013.02.16
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