2013年6月19日水曜日

郷原城



潜竜院から岩櫃山へ向かい、山道をてくてく歩いて行くと現れる岩櫃城の西側の守る為に造られた城です。

 城の規模は非常に小さいですが、山城址として結構見所があります。城の規模からして常駐の兵士は5人から10数人程度で、城の下を草津街道が通っていた事から監視する役割をもっていたか岩櫃城への狼煙の中継点であったのではないかと考えられているようです。

真田昌幸が、武田勝頼を吾妻の地に迎え入れる為に潜竜院を作りましたが、その時に同時に築城したのではないかという説もあるようです。

この城址は、1992年に吾妻町教育委員会の測量時に発見されていますので、割と最近なんですよね。


写真館

縄張り図



















訪問日 2013.05.06



2013年6月18日火曜日

潜竜院



真田昌幸が、武田勝頼を迎え入れようとした御殿跡であります。

1582年(天正十年)2月、武田当主・武田勝頼は、織田信忠(信長嫡男)の甲斐・信濃侵攻により攻められます。軍議の席で、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再起を図ることを提案します。その際、直様帰国し岩櫃山南側に三日間で造りあげたといわれるのが潜竜院です。

しかし、もう一人の家臣・小山田信茂も自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めます。

結果、勝頼は小山田信茂の提案を受け入れ岩殿山城へ向かいますが、途中で信茂に裏切られ、勝頼は岩殿へ入れず、天目山にて自害することになり、名門である甲斐武田家は滅亡することになるのです。

歴史にIFはないけれども、勝頼が昌幸の提案を受け入れ、岩櫃の地に来ていたのならば名門武田家はどうなっていたのでしょうか?昌幸は、狸と呼ばれていた男、切れものであるが忠臣って感じもしないんで、小山田信茂と同じく裏切ったのかもしれませんね。但し、信茂のように武田への不忠を理由に殺されるような事はないでしょうね。むざむざ殺されないでしょう!!

写真館





訪問日 2013.05.06



2013年6月17日月曜日

柳沢城



正直、この山登るのはキツかったです。この日の服装が、Yシャツに革靴だったのでwww
周りの皆さんは、登山靴と軽快な服でしたのよ。御年配の方が登山なさっていたので、それ用の靴なら楽勝だったかな?

この城は岩櫃山の隣に位置する観音山にあります。柳沢城の位置付けは、岩櫃城の支城となっていますが、その規模からして単独の城と見ても遜色ないので、真田氏の時代より以前にこの場所に城があったと考えられているようでもあります。松代にある真田宝物館にある岩櫃城絵図にも、この城を古城としるしてあるんだそうな。

一城別郭式の城で斥候(物見)曲輪と城郭部で構成されています。 ちなみに、一城別郭式とは、中心となる曲輪が二つあり、それぞれが曲輪群を従えて独立した構造の城のことで、二つの城が連結して一つの城となっている。



写真館 







斥候曲輪部分(観音山山頂部)はチェックしたのですが、城郭部は力尽きてしまい、見落とし沢山あるので、今一度チャレンジしたい城址であります。(案内板など何もないので上級者向けかも?)

麓には、江戸末期まで修験道者の修行場となっていたようで、修行に最適だったでろう?見事な滝もあります。



訪問日 2013.05.06


2013年6月16日日曜日

岩櫃城



6月の初めより1週間の群馬県出張でした。群馬県出張なんの面白みもないなどと思っていたら、なんと・・・私に割り振られた担当地域は、沼田・吾妻・渋川方面!

神様はいるのです!
朝が早い分、仕事終わりも早く、ノルマさせこなしてしまえば自由時間。
城攻めいつ行くの?今でしょう!!!!

さて、1番最初に私が目指したのが真田の城の一つ、あの有名な戦国末期のヒーロー真田幸村(信繁)も幼少の頃にこの城で過ごしたという岩櫃城です。

岩櫃城について(超ざっくり!)
岩櫃山中腹東面にあるこの城の築城年は定かではないそうですが、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮(すけふさ)により築城されたと伝えられていますが、築城者も定かではありません。
吾妻氏の後に、この地を支配していた斎藤氏が築城者という説もありますが、斎藤氏の根拠地としたのは岩櫃城西方3kmにある岩下城だとされる。等々言われており、説の域を出ませんし、実は真田氏が築城したのだという説まで存在します。
 
戦国期には斎藤氏が支配していたこの地も、上州進出を目指した武田信玄の家臣・真田幸隆に攻略され、この地は真田氏に支配化になります。

城郭規模は上州最大、武田氏支配時代には、甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三名城と称されていた程の城でした。

そんな名城も徳川の天下になった1615年(慶長20年)、家康の発したの一国一城令により姿を消すことになります。

入口から本丸までは登りで、以後降り、そして平坦な道と城攻め範囲も広くなかなか大変ですが見ごたえタップリです。入口から中丸までが兎に角虫が凄いんですよ・・・この地に入るんじゃねー!と言わんばかりに顔目掛けて突撃してきます。

城址入口休憩小屋
岩櫃城縄張り図
歴代当主年表

入口付近




中城付近

二の丸付近

本丸付近(大規模な堅堀が幾つか見られます。)



殿邸(海野長門守の屋敷跡)

西の木戸(西側の城下町の郭内への出入口などの軍事的要素の強い門)








   

橋台遺構(ここに進んできた敵を、三の曲輪から鉄砲・弓矢で攻撃できる場所)

東の木戸(東側の城下町の郭内への出入口などの軍事的要素の強い門)

天狗丸


岩櫃神社(天狗丸にある斎藤基広公を奉った神社だともいわれている。)


兎に角素晴らし城址でしたので、大変満足いたしましたが、私の城攻めは続くのです。
この後、岩櫃山にあるもう二つの城址に行き大変後悔するのです。


超ざっくりと城はここです!








訪問日 2013.05.06


豊田城(石下町地域交流センター)



ちょー、久しぶりの更新がコレでイイのだろうか?

しかし、一応・・・城名乗ってるし、僕のブログはぶらりぶらりお城巡りなので、(・∀・)オッケー!でしょ?

『石下町地域交流センター』な訳ですが、なんでこんなの建てたのでしょう?ちゃんとした、豊田城址もあるのに全く関係ない場所に豊田城を建てちゃうのが凄い!いやいや、本当の豊田城址にこんなの建てた方が顰蹙ものだわな?

別の場所(関係ない)に建てて正解!

私が考察するにバブル期に建てたものではないかと思うわけですが、どうなんだろうか?

この城の凄いところは、出城?が沢山あるところでしょうか?(倉庫になってるみたい・・・)




とりあえず、下妻行ったら話のネタによってみたらいいのではないでしょうか?迫力だけはありますから・・・w




久しぶりの更新がこんなのですいません!


                               訪問日 2013.05.16