2013年2月13日水曜日

小田城



只今、絶賛発掘調査中のオダジョーです。オダギリ・ジョーではありません!小田城です。
すいません(´∀`*)
発掘調査が大規模に行われておりますので、今後が非常に楽しみですね。
ただ、時代にそぐわない建物とかは建てないで欲しいですね。

小田城について
小田城は、十二世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、1193年(建久4年)には多気義幹を滅ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が滅びると、七代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は1338年(延元3年)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。しかし、高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関東へ移った。

戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は、1589年(永禄12年)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって、小田城は大規模に改修された。1602年(慶長7年)に佐竹氏は秋田に国替えになり、それに伴い小田城は廃城となった。

小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21haに及ぶ。本丸部分の約2ha程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のため城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原景時によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。

この城は平城として長所を十分に発揮して巧妙に設計されている。
本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入り口には馬出を設けて、直接侵入できないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な行動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲われている。
※ 立て看板参照

小田城写真館
本丸跡にある立て看板も工事区内に入ってしまっており、立ち入り禁止となっているので工事関係者の方に一言声をかけて入りましょう。

 






立て看板は、城外にもあります。




★城跡はココだ!★
茨城県つくば市小田1197-20


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古のロマンを感じた度 発掘調査終了が待ち遠しいですね。 80点


訪問日 2013.01.17



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