2014年1月24日金曜日

大胡城




場所 群馬県前橋市河原町

築城者 大胡氏

築城年数 天文年間(1532~1555)

現在の城跡の一部は大胡支所や学校に変わっていますが、素晴らしい枡形門、虎口、空堀り、土塁等の跡が良好な状態で残されていていますので感動すると思います。

大胡氏は藤原秀郷の子孫で、藤原足利氏(源氏足利氏とは別系統です。)の庶流にあたります。
バサリ言えば、足利尊氏なんかとは別系統ってことですね。剣聖で有名な上泉信綱なども一族にあたるといわれています。(信長の野望というゲームをプレイした方はご存知かと思いますが、めっさ強い人です。一人で百人くらい余裕で相手にできます。
大胡城主であったとも書物に書かれているとか?




名曲を聴いていただいた所で、続きを・・・

戦国期に、上杉謙信の攻撃を受け落城した際には謙信の家臣である北条高弘(きたじょう・たかひろ)が城主になってる所も私敵に興味深いです。 高弘さんは前橋城の城主にもなっていた人で、息子に前橋城を譲って隠居する際にも、この城に入ったそうです。

天正18年(1890年)徳川家康が関東に入部すると、牧野氏が2万石で封じられ康成・忠成2代の居城となります。その後牧野氏が越後長峰へ5万石で転封になると、酒井氏の前橋藩領となり城代が置かれますが、寛政2年(1742年)酒井氏の姫路転封により廃城となるのです。

写真館








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訪問日 2013.07.20

2014年1月20日月曜日

柄杓山城



場所  群馬県桐生市梅田町1丁目地内

築城者 桐生国綱
改修者 由良成繁

築城年数 1350年

藤原姓足利系佐野氏の一族桐生国綱によって、南北朝の初めに3年の年月を掛けて築城された実戦型の山城です。東に桐生川、南に渡良瀬川が流れ、西南の丸山と東南の浅間山に砦を構え、その間に新川を掘って要害堀とし、東西の山地には物見山その他の小さな砦を備えて万全の構えを示し、桐生実城と称されたといいます。

城主である桐生氏は助綱の頃まで繁栄したが、天正元年(1573)一族である佐野氏からの養子・親綱の時に、由良氏との抗争激化、桐生氏内部抗争による弱体化により築城以来約220年で太田金山城を本拠地とする由良成繁に滅ぼされてしまいます。

その後、由良成繁は嫡子・国繁に太田金山城を譲り、自分は柄杓山城に本拠地を移しますが、二代国繁の時に小田原の北条氏に味方して豊臣氏に敗れ、常陸国牛久に移された為廃城となります。


写真館


『三の丸跡』


『堀跡』


『二の丸跡』
三の丸もそうですが、コレが廓跡ですか?って感じに狭いで驚くのですが、多分
弓・鉄砲などの狙撃兵を数名配置する所なのだと思われます。


『本丸跡』
本丸跡は公園として整備されていました。桐生市を見下ろすことができ、景色が綺麗で、とても気持ちがいいので城攻め時にはこちらで休憩すると良いと思います。お弁当を食べるにはもってこいです!




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訪問日 2013.11.16

2014年1月19日日曜日

大阪城




場所 大阪府大阪市中央区大阪1-1

築城者 豊臣秀吉

別名 金城・錦城

えーっ、かなりサボっていましたが城巡りはコツコツとしていました。そろそろ真面目に取り組もうと本年一発目の城は天下の名城大坂城にしました。

なにせ、2014年元旦に行ってますのでね。

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起こり、そして大阪の陣(夏・冬)があり豊臣氏は滅亡、そして大阪城は消失しますが、2大将軍徳川秀忠によって再建されています。

さて、大阪城は、大坂城とも記されています。明治くらいまでは大坂城と書いていたようですね。
明治になっての字がするとも読めるのでに改名したという説がありますが、実際にはどうなのでしょうか?明治以前は大坂城と書き、現在は大阪城と書くのが正しいようです。

写真館






大坂府警本部も大阪城


 豊国神社に祀られると豊臣秀吉公













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訪問日 2014.01.01