さて、関東七名の6つ目の城になりました。
私にとっては、15年ぶりの太田金山城です。いざ攻めてみると、15年前には無かったモノが沢山ありまして、今回の城攻めでかなり衝撃を受けました。現在も発掘調査が続いているので、今後も楽しみなお城です。
金山城について
金山城は、本城の他に西城・北城・八王子砦からなる難攻不落の名城です。1478年(文明十年)七月、太田道灌が訪城。三日間滞在し、松陰西堂と兵書などについて雑談、城を見学し、「天下の名城」と讃えたといわれています。
1469年(文明元年)から1590年(天正18年)の約120年間、戦国時代(城主・新田岩松氏から由良氏、後北条氏)の歴史が残されている山城です。関東には石垣の城はないという定説を覆し、石垣を多用した難攻不落の山城です。
岩松氏の時代
新田氏一族の岩松家純(いわまついえずみ)が京兆家と礼部家の二系統に分裂していた岩松氏を統合し、応仁3年・文明元年(1469)にその重臣横瀬国繁に命じ、世良田長楽寺の僧、松陰軒西堂の縄張りにより金山城を築かせました。
横瀬・由良氏の時代
横瀬泰繁・成繁父子は岩松氏から実権を奪い、実質的な金山城主となりました。永禄8年(1565)頃、横瀬から由良と改姓し、国人領主を改め戦国大名の地 位を得ました。天正年間の最盛期には新田・桐生・赤石(伊勢崎)・館林・足利などを手中に収め、東上野に君臨しました。この間、甲斐の武田氏・越後の上杉 氏・相模の小田原北条氏などの戦国大名と、時に連携し、時に敵対し、攻防を繰り返しましたが、金山城は難攻不落を誇りました。
後北条氏の時代
天正12年(1584)小田原北条氏に金山城主由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されましたが、二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡すこととなり、由良氏は桐生城に退きました。金山城には北条氏の家臣が配置されました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に伴い、金山城は廃城となりました。
金山城写真館
西城から本城までの間にある4つの堀切のうち、一番西よりの堀切である。
『桟道』
『西櫓台下堀切』
『西櫓台通路』
『馬場通路』
『馬場下通路』
礎石建物址、堀立建物址の2棟の建物址がある。
『馬場通路・石塁』
『物見台』
『馬場曲輪』
『馬場下曲輪』
『大堀切』
『三の丸下塹壕』
『月の池』
『大手虎口』
『大手虎口下段曲輪』
『土塁石垣』
『大手虎口南上段曲輪』
『南曲輪』
井戸跡とかまど跡があります。
『日ノ池』
『本丸』
『天守曲輪裏馬場』
馬場というが、実際は馬屋がある郭である。馬は山城でも伝令用として使われていたので、馬屋が必要であるが、音に敏感な動物であるので、敵の攻撃にさらされぬよう、城郭でも静かな裏側に設けられた。ここには、馬薬用に『さいかち』が植えられてある。
『金山城石垣』
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『南木戸入口址』
『南木戸残存石垣』
『本城大手口』
★城跡はココだ!★
群馬県太田市金山町
★おまけ★
いつのまにか、太田市立史跡金山城ガイダンス施設なるものが出来ていました。施設内も綺麗ですし、金山城の歴史についても詳しく教えてくださます。
それと、城攻め後に山田屋本店さんでいただいた、上州名物焼きまんじゅうとラムネが美味いしかったです。女将さんの接客も素晴らしい!
古のロマンを感じた度 金山城、本当に素晴らしいお城でした。 100点
訪問日 2013.02.28