2013年11月14日木曜日

刑部城



場所 栃木県宇都宮市東刑部町堀之内

城跡ですが・・・完全民家ですので、注意して城攻め致しましょう!例え戦といえど挨拶は大切です。そう、行ってみて思ったのですが、刑部城というより刑部館跡と言ったほうがいいかもしれません。

築城は応永年間(1394~1428年)に宇都宮氏の流れである横田師綱の次男良業が刑部郷を領有して横田姓を改めて刑部氏を称しここに築城したそうです。

時を経て、刑部経貞は宇都宮国綱の家臣として豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って、文禄2年(1593年)に朝鮮で戦死してしまいます。そして、4年後の慶長2年(1597年)主家である宇都宮氏の没落に伴い刑部城も廃城となり、刑部氏は帰農してこの地に土着します。現在の城跡の所有者である刑部さんは子孫にあたるようです。

写真館





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訪問日 2013.07.11

2013年11月13日水曜日

岩井山城



場所 栃木県足利市岩井

別名 観農城

足利長尾氏の初代である長尾新五郎景人が足利庄の代官になったことにより、1466年(文正元年)に築城した。長尾氏は幾多の系統があるが、景人が足利庄の代官となってから足利長尾の家が生まれることとなり、この地は足利長尾の発祥の地ということのになる。

三代目景長は、足利城を改修し本拠地を足利城へ移し、岩井山城は家臣白井豊後守らを置き支城とした。

1590年(天正十八年)六代目 顕長のとき、豊臣秀吉による小田原征伐がおこり、北条方にあった足利長尾氏は北条の降伏と同時に領地を没収され、足利城と共に廃城となった。

現在は、赤城神社が祀られており、古く朽ち果てた民家?が残っていました。この城へ行くのは早い時間が良いと思います!薄暗くなると朽ち果てた民家が凄い怖いです・・・
城跡を攻めてると所々にお墓も出てきますので、早い時間に越したことはない!

ちょっと、ビビった私は幾度となく『お邪魔します。怒らないでね。』と何かに懇願しつつ城攻めしたのでありました。

写真館 









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訪問日 2013.07.06

2013年11月12日火曜日

御前原城




場所 栃木県矢板市早川町174

国道4号線矢板バイパス沿いのシャープ工場の南側に位置する御前原城(ごぜんばらじょう)は、古くは中村城と呼ばれていたという。

1963年(昭和38年)の矢板バイパス建設により、道路が城跡の中心を通過する予定になっており消滅の危機にあったが大きな保存運動がおこり建設計画を一部変更し無事に存続される事となった。その際に県指定重要文化財の史跡指定を受けている。

しかし、矢板バイパス開通後の周辺地域の土地開発により、主郭部と虎口を除き多くを消失してしまうこととなるが、主郭部と虎口は非常に良好な状態で保存されている。

築城年数は、1192年(建久3年) 頃に塩谷北部を治めていた塩谷朝業(ともなり)が御前原城を本拠地としていた伝えられていたが、発掘調査による年代と200年の年代差があり現在では1400年代の築城と考えられている。

写真館



四方を高い土塁と堀が巡っていて、予習なしで立ち寄った私は余りにも立派で驚かされました。
城の造りとしては平安末期の典型的な平城。


本丸には庭園の跡も残っていますし、1549年(天文18年)に塩谷六郎由綱が父孝綱の菩提を弔い城内に建立した石造りの『はしか地蔵』が祀られています。


虎口より本丸南入口をのぞむ


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訪問日 2013.11.12

2013年11月5日火曜日

鶉古城



場所 群馬県邑楽郡邑楽町鶉新田 

多々良沼の突出した部分荒間崎という部分に築かれた城である。1333年(元弘3年)5月に北条高時が滅ぼされた際に、高時の弟で僧侶の彗性(えしょう)がこの地に逃れて来て築城した城である。

1394年~1428年には多々良四郎忠政の居城となり、戦国時代にはいると館林城配下の下野国小曽根郷八形城主である小曽根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で鶉古城を守備したが、1590年(天正18年)館林城落城に伴い廃城となり鶉古城250年余りの歴史に幕を落とすことになる。

現在は多々良沼公園となっている。

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 先端浮島に墓石浮島辯財尊天があり、南北朝時代と推測される墓石の一部が安置されいる。





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訪問日 2013.07.14


2013年11月3日日曜日

川連城


場所 栃木県栃木市大平町川連

応仁年間1467年頃に川連仲利が築城したと言われる。最初、川連氏は佐野氏に属していたが、永禄6年1563年に皆川俊宗の攻撃を受けて占領されてしまう。以後、川連城は皆川氏の支配下になり、皆川氏の支配下に入る。その際に改築され複廓式の平城で東西380m、南北500mの大規模な城だっといわれている。

現在は城跡である事をうかがわせるものは無いく、民家の前に立て看板と石碑が建てられているだけで、隣が川連天満宮となっている。


写真館 



 






  

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訪問日 2013.11.02

2013年9月11日水曜日

中村城




場所 群馬県前橋市粕川町

戦国末期の平城と推定されており、『中村右馬之丞』の居城と伝えられていますが、中村城についての古文書は無く、伝承のみに伝えられてるんだそうです。 不明な部分の多い居館跡ですが、遺構は良好に残されていました。

ちなみに、中村右馬之丞は武田勝頼に滅ぼされ、粕川村善、新里村小林に住んでいる中村姓の家がその子孫と考えられていますが、本丸跡に住んでいる松島氏の先祖との関係があるのではないか?と考えられているそうです。

なので、民家ですので探索の際は充分注意しましょう。

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訪問日 2013.07.19

2013年9月10日火曜日

膳城




場所 群馬県前橋市粕川町膳

武田勝頼の『膳城の素肌攻め』で有名なお城ですが、勝頼(武田信玄の四男)に素肌攻めされて廃城となったようです。

素肌攻め...なんて卑猥な?なんて思うかも知れませんが違いますよ。
 説明は、パス!他の人が詳しく説明してくださっているので、知りたい人は検索してくださいね。

築城年数は、不明で、鎌倉時代の文献に『善』氏が登場しているが、善氏がこの城を居城としていたかは不明である。

南北500m、東西250mの紡錘形で、北西部だけ平坦地に続き、ほかの部分は兎川とその支流に依托し、西北が高く東南が低い造りになっている。

さて、この城に行ってみてビックリしましたが、保存状態が大変良好です。


写真館


本丸
さほど大きくはないですが、公園になっています。



右下画 『北曲輪跡』は、民俗資料館になってます。城跡探索がてら行ってみてください。


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 訪問日2013.07.20