2014年8月4日月曜日

羽生城


場所 埼玉県羽生市東5-7

築城年数 天文年間(1532~1554年) 

築城者  広田直繁 木戸忠朝

現在は天満宮となっており、石碑が建てられていますが遺構は何も残っていないようです。羽生城は周囲を塀と土塁で囲われた平城だったと言われており、本丸は天満宮のある場所から西にあったようです。

さて、この城『北武蔵城物語』の城として忍城騎西城と共に絶賛スポット当てられ中なのです!!(多分)
で、キャッチコピーは、『上杉謙信に忠誠を誓った”あい”の城』(北武蔵物語のパンフレットに書いてある。)

北武蔵城物語・・・なんとなく、昨日~♪今日~♪あーすー♪変わりゆくわ~た~しー♪とか歌いながら探索したくなりますよね。

なんとなくっす!

ちょっと真面目に、築城者である広田直繁と木戸忠朝の兄弟は古河公方に使えていましたが、後北条氏が北武蔵に進出してくると敗れてしまい、城は後北条方の中条出羽守が城代として入ります。永禄3年(1560年)越後の上杉謙信が関東へ進出すると広田直繁、木戸忠朝の兄弟は上杉謙信に従い軍功をあげたので、城は再び兄弟のものとなるのです。広田・木戸の兄弟は、後北条氏と上杉謙信の争いの中で、常に上杉へ忠誠を近い後北条氏の本拠地小田原城を攻めたり、後北条方忍城主・成田氏長と戦を交えたそうです。

天正2年(1574年)には、羽生城が後北条に攻められ落城寸前になった際、上杉謙信は城兵数千を上州の膳城山上城に移らせ、羽生城は謙信の命で自落しました。 

その後、羽生城は後北条方の成田家の支配下となるが、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して後北条が滅ぶと徳川家康が関東に入り、家臣の大久保忠隣が2万石で入城しますが、有名な大久保長安事件で連座し改易され、この地は幕府の天領となるのです。

これにて、『北武蔵城物語』完結!めでたし・・・めでたし!!

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訪問日 2014.03.14

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